ふるさと古寺巡礼 ―印旛・香取、古寺名刹の世界―

ふるさと古寺巡礼 ―印旛・香取、古寺名刹の世界―

「成田山と古代印旛の謎」

1. 成田山命名の背景

新勝寺で写真を撮り始めたころ、私は撮影をしながら、成田山がこれほどの大寺になることが出来た理由を考えていました。そんなある日、釈迦堂の傍を歩きながら新勝寺を英語に置き換えてみて、パッと光が差し込んだように思いました。ニュービクトリーテンプル、それならば、オールドビクトリーテンプルがどこかにあるはずだと。その時、オールドビクトリーテンプルが何処なのか、直ちに閃きました。坂上田村麻呂将軍の対蝦夷戦争に由来する東勝寺(宗吾霊堂)、これです。

大野政治著「成田山新勝寺」には、その縁起について「田村麻呂将軍によって乱が治まり平和になったが、弘法大師に諮ると不動明王の力に頼ることを奉上したので、天皇が下命し、大師自ら不動明王を敬刻した(大意)」とあります。そして、田村麻呂将軍が、その戦乱での犠牲者を弔うために建てたのが「東勝寺」だったのです。大和朝廷が東方での戦乱に際して創建した「ビクトリーテンプル」が、ともに印旛の国、成田の地にある。これは一体、何を意味するのでしょうか。

私は以前から、成田市に隣接する竜角寺古墳群の岩屋古墳が、同時代の推古天皇陵よりも遥かに巨大であること、聖武天皇の皇女が、松虫の薬師様を頼って大和からはるばるやってきた事などに疑問を持っていました。博物館などでは文化は大和からやってくると説明しているが、本当にそれだけなのか、ということです。ところが、今では青森県三内丸山遺跡の土木技術が「版築」と呼ばれる高度なものであったり、富山県桜町遺跡から「貫」という技術が使われた建築物が出土する等、弥生時代はおろか、縄文時代ですら、高い技術、文化が存在していたことが分って来ました。

そんな中、私たちの足元からも、考古学者を驚ろかせるような出土物が発見されました。場所は成田市羽鳥。縄文時代の住居跡から一つの土面が出土したのですが、それは、デスマスクとも例えられる、立体的な造型をしていたのです。これまで日本列島の中で出土したものは、どれも平板なものでしかありませんでした。遺跡の時期は、5500年前にあたると考えられています。この土面は、その後、国の重要文化財に指定されました。

成田と周辺の一帯は代表的な古墳の密集地でもあります。成田市の公津が原の古墳群は総数124基と言われ、竜角寺古墳群は145基を数えます。二つのビクトリーテンプルは、ともに、公津が原古墳群の谷を隔てた大地上に位置しています。そこで私は、成田山隆盛の背後に、成田という土地が、成田山創建より遥か以前の、輝ける歴史があったのではないかと、想像を逞しくしています。そして、最近は、ご本尊が不動明王であることも、重要な要素だったのではないかと考えるようになりました。