ふるさと古寺巡礼 ―印旛・香取、古寺名刹の世界―

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東勝寺「宗吾様御廟」

「宗吾様御廟」

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鳴鐘山東勝寺
成田市宗吾
坂上田村麻呂創建
真言宗豊山派
本尊・宗吾様尊霊

撮影・平成15年4月10日
210㍉F5.6 F22 1/8秒 E100s

撮影ノート

最初に開いた個展で「お寺巡りをしているが、東勝寺が見つからない」と、私に尋ねて来た人がいました。今では「宗吾霊堂」として親しまれていますが、東勝寺は、坂上田村麻呂将軍が蝦夷との戦争の犠牲者を弔うために創建した寺院です。台方の白幡に創建された東勝寺でしたが、火災にあって現在の愛光園付近に再建、さらに国府台合戦で敗れた里見方に火を放たれて諸堂を消失すると下方に再建され、江戸時代には周辺に11ヶ寺をもつ大寺となりました。しかし、明治43年の大火により、現在地に移転しました。その歴史については小倉博著「成田の歴史散歩」に詳しく書かれています。

新勝寺の撮影をしている時、私は、あることに気がつきました。新勝寺を英語で言ってみるとニュービクトリーテンプルです。それならば、オールドビクトリーテンプルもあるはずではないか、と。その時私は、それは東勝寺であると、直ちに結論したのでした。

元々、新勝寺のご本尊様は、東勝寺を創建した田村麻呂将軍の蝦夷との戦役において、時の嵯峨天皇が弘法大師に東方鎮護の霊仏として彫らせたものです。後に平将門の乱が起こると、朱雀天皇は、その不動明王を成田の地に遷座させ、将門調伏の祈願をさせました。ここに、期せずして成田の地に二つのビクトリーテンプルが創建されることになったのです。これは成田が大和王権にとって、東方鎮護の聖地となっていたと言って良い事態ではないでしょうか。

それでは、何故、大和王権は成田の地に二つもビクトリーテンプルを創建したのでしょうか。このような疑問、謎に想いを巡らせることもまた、撮影の合間の楽しみの一つでもあります。

写真は宗吾様の御廟です。宗吾様の御廟に太陽の光のまわる夕方を待ち、撮影しました。