ふるさと古寺巡礼 ―印旛・香取、古寺名刹の世界―

ふるさと古寺巡礼 ―印旛・香取、古寺名刹の世界―

激動の時代を生きた国鉄マンー椎名 修夫-成田運転区の戦中・戦後、空港輸送-

椎名修夫は昭和16年に鉄道省に入省、敗戦を蒸気機関車を運転して上野駅で迎え、戦後は中央、関東の鉄道学園に派遣されて最新の技術を千葉県に伝えました。お召し列車の運転士を務め、晩年には成田運転区助役として成田空港への燃料輸送を担当しました。 国鉄当局と対立を深めた動労を脱退する「決議書」や燃料輸送にともなう不測の事態への対応を配慮した労使の「確認書」など、一般には目に触れることのない文書は時代を知ることの出来る貴重な資料であると思います。
  なお、反対同盟の農民との連帯を貫いた千葉動労の関川委員長も成田市民であり、二人は無二の親友でした。立場こそ違え、終生、その友情は変わることはありませんでした。異なる立場から昭和という時代を力一杯生き抜いた二人の人生でした。
  蒸気機関車からディーゼル機関車、電車へというめまぐるしい時代の流れと、激しかった空港反対運動、それを乗り越えたジェット燃料輸送。激動の時代を生きた国鉄マンの記録として皆様にご覧いただければ幸いです。

大正12年5月1日 椎名修夫、成田市郷部に出生

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成田の総鎮守、生地、郷部の三宮神社祭礼で
千葉県小学校児童剣道大会、参加記念証
千葉県体育協会
更新学園に入学
働ク姿ノ朗カサ
昭和13年12月 満鉄志望時の写真
昭和14年11月 鉄道就職当時
昭和15年5月機区庫内での同窓会
昭和15年9月1日 成田機関区二十周年記念
機関区構内写真
同、職員の集合写真、前列、左から三人目に本人
成鉄、鍛錬会
昭和16年東鉄(千葉)機関助士講習会
第三期生卒業記念写真
昭和16年1月 千葉集中教育時の写真
昭和16年9月24日、鉄道省の辞令「雇ヺ命ス」
昭和17年12月20日、男子同窓会
昭和18年2月16日 成田機関区内の集合写真
前列に軽音楽団
軽音楽団には出征兵士を送る目的が。東京でも演奏会
昭和19年、千葉での機関士科教習中の仲間と
昭和19年6月3日、千葉機区在勤当時
昭和19年6月20日 東教専修部第16回機関士科(千葉分室)終了記念写真
昭和20年8月15日 成田線で上野行に乗務
敗戦時の上野駅(文書)
戦後の軽音楽団、後列左から二人目に本人
一人おいて関川宰氏も
昭和25年4月 東京鉄道局千葉管理部
第一回地方乙種運転管理部表彰状二等
昭和30年7月12日、千葉鉄道管理局千葉職員養成所、気動車分科修了証書
昭和30年9月19日~11月29日
  千葉鉄道学園で8回開かれた特設DL科にて講師を務める、前列左端に本人
昭和44年10月3日 動労脱退、千葉動力車職員協議会結成の決議書
昭和46年10月25日 関東鉄道学園
第二回現場幹部特別研集会集合写真 後列右端に本人
昭和48年 若潮国体のお召し列車、DD51842「佐」、運転士を務める
昭和53年3月1日 成田空港へのジェット燃料輸送による「不足の事態」対応の確認書
燃料輸送の気動車と
燃料輸送中の貨車列
千葉局運転部長からの色紙
同、裏面の感謝の言葉
昭和54年4月1日 「参事補に任ずる」
昭和62年11月15日 椎名修夫永眠
令和2年12月、成田市文化・芸術センターで「激動の時代を生きた国鉄マン」開催

椎名修夫のアルバムから

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成田駅正面
運転区前か三人
正面缶の前二人
斜め前から乗務して
雪のSLと
SLの点検
SLと四人で
さよならSL皆で
父P-5
ピンさんとSLで
さよならSLと並んで
C57と205
機関区内
ディーゼル車と