ふるさと古寺巡礼 ―印旛・香取、古寺名刹の世界―

ふるさと古寺巡礼 ―印旛・香取、古寺名刹の世界―

浄妙寺「山額」

「山額」

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法性山浄妙寺
多古町北中
創建・天平・賛字年間(757~65)
日蓮宗
本尊・釈迦仏

撮影・平成10年12月25日
4×5判 150mmF5.6 F22 1/2秒 EPP

撮影ノート

鑑真創建の浄妙寺は、開創時には東耀寺と号して律宗に属し、聖武天皇勅願による祈願所ともなった古刹です。正平元年(1346)、寺主了整が日祐に帰依して日蓮宗となりました。付近には、現在でも改宗前の経典を納めた経塚が残っています。かつては七堂伽藍を誇る大寺だったのですが、江戸時代に台風により倒壊し、現在地に移りました。

その北中の地は、台地の狭いへこみの奥にあります。住職は、「風害にあったとは言え、不便なところに移ったものです」と笑うのですが、その決定の理由には、当地から仏像が出土したことがあるとのことでした。私は、天災にあったことで改宗との関連を心配する声が出て、一度は廃棄した元の尊像を求め、移転したと推察するのですが、どうでしょうか。

山門上の「法性山」という額に惹かれて撮影を試みたのですが、光の回りが悪く、画面の引き立ちが今一つでした。地面からの照り返しを期待して太陽の低い季節に訪れると、今度は直射日光が当たってコントラストが強すぎるように思えました。しかし、出来上がったポジを比較すると、太陽の当たったものは額に輝きがあり、主題を生かすことができたと思います。

この額は「賛鑑寺の法親王」に賜うと、千葉懸香取郡誌にあります。この寺は京都にある日蓮宗の寺で、親王は、もちろん皇室のかたでしょう。明治維新までは、皇室、天皇もまた、仏教徒でした。山額にも菊の御紋章が光っています。廃仏毀釈を断行した維新の担い手たちは、一種の急進的な皇国史観の推進者だったと言えるでしょう。例えば、京都の泉湧寺には、天智天皇から江戸時代最後の天皇までの「位牌」が安置されています。そんな千二百年余の皇室の伝統が、戦後、民主国家となったはずの現代においても無視されたままなのは、実におかしなことだと思います。